チームとしての意志 ( v Chelsea / v Stoke City)
チェルシーとの試合で、ダイアー選手のロングボールを絶妙トラップしたデレアリ選手が決勝点をあげる。テクニックが詰まった得点にいたく興奮した。
他にも小気味好いパス回しは足元のうまさが垣間見え、さすがピッチに立っている選手だけあると思わされた。
一方でチェルシーは、「アザール選手うまい」「ウィリアン選手すごい」というのは有るんだけど、個人の良さしか出てこない。偶然にも個人能力の高さが100%発露されました、というタイミングを待つしかないような状態だと思った。
あるべき姿としては、個人の良さを組み合わせることによる目的完遂であろう。高い個人能力を引き出すために、別の個人の能力を使う。そこには意志が介在している。
この意志は大変魅力的である。自分の意のままにならないものを扱う全てに当てはまるかもしれない。
翌週のストークとの試合は、そんな「意志」が両チームでまったく異なる表現として現れた。
「放り込みは面白くない」とは聞くんだけど、あまりそう感じたことが無い。恐らく、「意志」が有るものを目にしてきたのであろう。むしろ放り込みの方が、「意志」は明確なのかもしれない。
トッテナムとストークの違いはまさにスタイルウォーズで、熱いものがほとばしる好ゲームであった。こういう試合をもっと観れたら良いのになあ。
球際のためのマインドセット(v 北海道コンサドーレ札幌)
ボールを保持することはあくまで手段である。それが目的となるとサッカーではなく、また別の競技となる。
黙っていてボールが足元に転がってくれるのであれば、何も文句は無い。しかし、対面の相手もボールを保持し、ボールを前に進め、ゴールライン中央の範囲に収めたいというのは同じである。簡単には渡してくれないので、奪いに行く。
奪いに行くのも、直接的に奪うものも有れば、ミスを誘うものも有る。サッカーは個人競技ではないので、複数人で連携して後者の方法をとるのがベターであろう。
いずれにしろ相手選手や、保持しているボールに激しくいくというのは必ず求められることである。
この日のボールホルダーに対する守備にはそれが見られず、最終ラインに向けてボールを放り込まれていた。札幌の前線は高品質のボールを受け取ることができ、名古屋の最終ラインは後ろ向きの対応を迫られる。分が悪い。
球際に行けない、というのは迷いが有るからではないであろうか?
「相手選手にどういうプレーをさせる」「その後、味方選手にどんなプレーを求める」そんな辺りがハッキリしていれば、思い切りの良い球際の攻防が見れるかもしれない。
球際で激しく行けないのであれば、球際以前のそのような思考が求めらる。
ボールを持っていない時の「自分たちのサッカー」を定義しなければ、個々の選手のクオリティが高いJ1では辛い。
クラブの歴史は設立年ではない( v サガン鳥栖)
鳥栖がJ1上がってきた時、「すぐに居なくなりそうなので早く鳥栖のスタジアムに行かねば」と思っていたうちに、すっかり定着し、やがて訪問の優先度が落ちていた。
そうこうしている間にこちらが二部落ち。
再び相まみえるが、豊田選手はおらんのね。
鳥栖がJ1で戦い抜く術を、日々現場で磨いた時間は実に6年。
鳥栖にとって「サッカーはこういうもの」というのは明確で、あらゆる局面を同じやり方で切り抜ける方法を知っている。
一方の名古屋は「昨年のやり方は手詰まりなんで別のやり方で」などと、付け焼き刃で太刀打ちできるのだろうか。
ジョー選手は確かに強い、上手い。しかし、これでは高額すぎる3億円の電柱。
名古屋グランパスをオリジナル10などとありがたがる風が有るが、そこにクラブの歴史などまるで感じない。「2011年のチームが優勝した」「ピチブーが外国籍選手で最高得点」と、チームや選手の歴史だけ。
過去には個々の選手の尖った能力活かしてどうにかしたんだろうが、ベースの技術で勝負する今は、そうもいかんよ。
八反田、玉田の両選手の不在は嘆かわしい(レシーバー、応答せよ)。
ベンチは若手の見学席ではないことを証明してほしい。
週末のフットボールとカルチョ(2018年3月第3週)
フットボールはカップ戦でスウォンジー・シティと、カルチョはリーグ戦でジェノアとそれぞれ試合だった。
スパーズはデンベレ選手、ナポリはハムシク選手がいないと迫力に欠ける。
中盤の選手ということは共通しているけれど、後方からの組み立てが得意な前者に対し、後者はフィニッシュにも絡む。
むしろこの日に出場していたシソコ選手はハムシクに近いとこ有るかもなあ。
役割の違いにも関わらず不在により意識せざるを得ないこの感覚を存在感と呼んで良いかもしれない。
ナポリの目標はスクデット絞られた中、首位を明け渡し、固定メンバーの疲れも見え、まさに正念場を迎えている。頑張れ。
にしても、ユヴェントスってドイツにおけるバイエルンみたい。イタリアは実力伯仲で、セヴンシスターズなどと言っていたのは今や昔だ。
社会人1年目は博多
一人暮らしと言えば中野なんだけども、社会人一年目を過ごした博多は、時間の割には思い出深い。
配属はどこでも良いし、せっかくなら名古屋か東京以外でも構いません。
なんて言ったら博多に配属された。
会社が用意した部屋は親子3人でも住めるような広さで、6畳間に慣れきった自分にはオーバースペックだった。
大人の世界なんて学生よりもしっかり考えて動いているから、言われた通りやれば何とかなると思っていた自分にとっての会社員生活はひたすら辛かったように記憶している。
頭を使って仕事をする気が無かったのか、ひたすら体力任せに頑張る。それだけでは成果は上がらない。疲弊した先には無気力が現れ、どうしたら良いのか分からなくなった。
コンビニ飯が仲良し、たまに入れるラーメン屋が心の癒し。当然のように荒む暮らし。
職業意識も希薄な割に仕事に対する精神的コストが高かったが、ひとりという環境で持ちこたえられた。
物理的な独立に加えて、経済的な独立を手にした満足感、解放感を元手に生きていた。
休みでもあれば、いつ、何をしても良い。大きな阻害要因であった懐事情は解決した。
仕事がうまく行かない分、CDやアナログ買って、クラブ行って(当時はジャスティスとか流行っていたし、福岡は小さい割に熱が有った)、なんとかやりきった。
本業がうまくいってないので、1年半で異動となった。
シーズン序盤の楽観(v 川崎フロンターレ)
ドリブル多かったなあ。
それだけパスコースを消されていたんだろう。
ショートパス回すのはあくまで手段だから、それほど問題視はしないけど、ドリブルよりは速くて確実だし、ドリブルはアクセントとしての意味合いが強い。
和泉選手がドリブル過多な印象だったのに対し、長谷川選手はドリブルと長短のパスの使い分けが絶妙だった。
川崎の狙いは分かりやすく、ガンバや湘南と同じく最終ラインの裏を突いてきた。
オフサイド取れる分には良し。破られたらどうしよう、というシーンはいくつか有った。
全体的に破綻することはなくとても良くできていたと思う。
「負けたなあ〜」という感覚が薄いのはシーズン序盤が故かもしれない。相手はきちんとセットプレイで決めて、こちらは決定機を決められなかった。
そのように割り切っても良いと感じた。
3つのフェーズが同居するスカッド(v サンフレッチェ広島/リーグカップ)
例によってルヴァンカップは観ていない。そのせいか、試合後会見での風間監督の発言は大変目を惹く。
https://inside.nagoya-grampus.jp/inside/detail/index.php?sid=78&cid=102
プロのチームは教育、強化、戦いが有ってそれをひとつのチームでやるとのこと。
二種登録を含めた10代の選手から聞こえる充実感と、ベテランの課題感を含んだ発言のギャップは、3つのフェーズが同居している証左であろう。
この感覚のギャップに危うさを感じたものの、互いの刺激にもなり得るように今は思う。
とりあえず、各フェーズの役割を下記のように認識した旨を残しておく。
教育…風間的スキルの習得
強化…習得スキルの充実と個性の発露
戦い…習得スキルと個性を総動員した表現
過去の名古屋グランパスは、「強化」の後ろ側と「戦い」しかやってなかったのかもね。