ラジオの温もり
3/11は時間になったら黙祷をしようと思っていたが、いつもと生活リズムが変わった息子と遊びに出ていたら、すっかり忘れてしまっていた。
夜になってテレビを観ながら、形ばかりの復興や、出口の見えないような廃炉作業を思い、2011年にガラッと変わった状況が続いていることを実感した。
ずっとテレビをつけていたらかなりドンヨリした気分になっていたかもしれない。
だけどこの日を意識できたのは、ラジオから流れてきた「花は咲く」のおかげだ。
「ああ、今日は3/11だ」と自然に思うことができたし、ラジオのローカル性は「自分にできること」にフォーカスしているから自然体である。
この自然な想起で、マーシャル・マクルーハンのメディアの分類である「ホット」「クール」について考えさせられた。
ぼんやりとした記憶ベースでの話なので、またしっかり勉強したい。
ラジオは発するメッセージ自体の意味が強い「ホット」なメディアであるとされている。
こちらが意識をせずとも、熱が伝わってくる。そのため先ほどの自然な想起に結びついたのであろう。
「伝えよう」という主体性を持っているような印象だ。
「クール」なメディアの代表例が、ユーザーの関与を求めるテレビである。
関与を求めるだけあって「見て!」というフックはかなり強烈なものになる。
下手すればユーザーの注目を集めるための、刺激の塊になってはいないか?
テレビに対する忌避感はそこに有るように感じる。
かまってちゃんの相手を続けるのは辛い。
熱伝導で言うと、温もりを伝えてくれるのはラジオ、熱を奪っていくのはテレビである。
今はラジオの温もりが欲しい。